基本情報

国名:スリランカ民主社会主義共和国
   Democratic Socialist Republic of Sri Lanka
旧名:セイロン、セイロン島
首都:スリジャヤワルダナプラコッテ
時差:日本との時差は−3時間半(日本が正午の時、スリランカは午前8時半)
面積:6万5,610平方キロメートル
政体:共和制
人口:約2,103万人(2016年)
民族:シンハラ人74.9%、タミル人15.3%、スリランカ・ムーア9.3%
言語:シンハラ語、タミル語、連結語として英語
宗教:仏教徒70.1%、ヒンドゥ教徒12.6%、イスラム教徒9.7%、キリスト教徒7.6%
教育:義務教育は英国のシステムを用い5才〜16才まで
3学期制(1月〜4月、5月〜8月、9月〜12月)
産業:主要産業は農業(紅茶、ゴム、ココナッツ、米作)、繊維業
国旗:剣を持ったライオンはシンハラ族のシンボルとされており、
そん周りを仏教のシンボルである菩提樹の葉っぱが囲っている。
左側の緑の帯はイスラム教を、オレンジの帯はヒンズー教徒タミル人のシンボル

日本との関係

空海の満濃池とアヌラーダプラの灌漑設備

『仏国記』の著者として知られる中国東晋時代の僧、法顕(337-422年)。長安からインドへの巡礼中、スリランカに立ち寄り当時のアヌラーダプラ王朝の灌漑設備を学んだとされています。弘法大使として知られる真言宗の開祖、空海(774-835年)は、遣唐使として唐の時代に中国へ留学中、法顕の残した書物からアヌラーダプラの貯水池に見られる灌漑設備を学び、満濃池の改修にその技術を用いたのではないかとされています。

明治維新以降スリランカへ渡った日本人

福澤諭吉(1835年~1901年):1867年、幕府の通訳として米国へ渡航した際セイロン島へと立ち寄る。1867年にこの度の記録を『西洋旅案内』としてまとめ、印度海飛脚船の立ち寄る場所としてセイロンの記載もあります。ゴールに立ち寄り、桂枝(シナモン)の生産が盛んなこと、米と稲作の文化、仏教についてとアダムスピーク巡礼についてなどが書かれています。

岩倉使節団:1873年アメリカおよびヨーロッパへの帰路セイロン島へと立ち寄る。一員の久米邦武の『米欧回覧実記』にもゴールの港でアヘン貿易の一端を見たと少しだけセイロン島への記載もあります。

有栖川宮熾仁親王(1835-1895年):1883年ロシア帝国のアレクサンドル3世の即位式に出席した帰路、コロンボへと立ち寄り、スリランカと日本の仏教僧侶による交流を約束。

釈興然(1849-1924年):1887年に仏教を学ぶためスリランカへ渡る。ゴールのアタパットゥワラウワに滞在し、日本人初の上座部仏教僧侶に。スリランカ人のアナガリカ・ダルマパーラとも親交があり、共にインドの仏教聖地ブッダガヤを訪れ、ブッダガヤの再建にも関わりました。

釈宗演(1860-1919年):1887年に福沢諭吉の勧めでセイロン島へ留学。1893年にシカゴで開催された万国宗教大会に日本代表として参加し、スリランカ代表であったアナガリカ・ダルマパーラとも親交があったとされます。

その他:釈興然、釈宗演に続いて何人もの日本人仏教僧侶がスリランカへと仏教を学ぶため留学された記録が残っています。その他にも、森鷗外(1862-1922年)、夏目漱石(1867-1916年)、与謝野晶子(1878-1942年)などヨーロッパへと留学した著名人たちもコロンボやゴールの港に立ち寄ったとされています。

昭和天皇のセイロン島訪問とゴールフェイスホテル

1921年に軍艦「香取」でイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪。英国領時代のセイロン島にも立ち寄り、コロンボのゴールフェイスホテルに宿泊しました。ゴールフェイスホテル内のホテルミュージアムには1864年のオープン以来150年以上に渡り向かえ入れた日本人を含む著名人の写真などが飾られています。

第二次世界大戦下、1942年セイロン沖海戦

セイロン沖で日本海軍の空母機動部隊とイギリス海軍の東洋艦隊が衝突。4月5日日本軍はイギリス海軍の基地となっていたコロンボを空襲、4月9日にはトリンコマリーを空襲しています。コロンボのボレッラにある墓地には当時スリランカで亡くなった日本人の慰霊碑が建てられています。東海岸のバッティカロアの沖合には、日本軍に爆破された英国海軍の航空母艦ハーミーズが今も沈んでおり、ダイビングツアーなども行われています。

“憎しみは憎しみによって止まず、愛によって止む”
ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ

戦後の日本の統治を決定するサンフランシスコ講和会議の席にセイロン代表として出席したジャヤワルダナ氏。「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(Hatred ceases not by hatred, but by love.)」という仏陀の言葉を引用し、欧米列強の面前で日本に対する賠償請求を放棄する旨の演説を行いました。この演説は各国の賛同を得、日本が国際社会に復帰できる道筋を作りました。ジャヤワルダナについては、コロンボ市内のJRジャヤワルダナセンターにて学ぶことができます。

日本とスリランカの国交樹立

1952年に日本はスリランカと国交を樹立。以来60年以上にわたり、政治、外交、経済、文化などの広い分野で交流が行われています。コロンボ空港やコロンボ港、2006年にオープンしたスリランカではじめての高速道路などは日本のODAによって建設されています。

スリランカで人気の『おしん』

スリランカでは1979年にテレビ放送が開始され、1982年には日本の支援によりスリランカの国営放送局が開設されました。1987年に国営放送局によって放映された日本のテレビドラマ『おしん』が国内で大ヒット。これまで数回にわたり再放送もされています。

歴史

アヌラーダプラ
キャンディーの王族
植民地時代のリプトン工場

先史時代

紀元前1万年以上前:石器時代、古代人バランゴダ人の化石、インド大陸とスリランカは陸続き
紀元前543年:インドで仏陀が涅槃に入る、ウィジャヤ王がシンハラ族を引き連れてスリランカへ

アヌラーダプラ王朝(紀元前377年~紀元459年)

紀元前250-210年:デーヴァナンピヤティッサ王の時代、インドのアショーカ王が仏教を伝える
紀元前161-137年:ドゥトゥガムヌ王の時代、タミルのエラーラ王を破り島はシンハラ王朝のもとに
紀元前35-32年:パーリ語経典がはじめてスリランカで文字として書かれる
276-303年:マハセーナ王の時代、世界で一番大きな仏塔ジェータワナラーマヤが築かれる
303-331年:シリメガーヴァナ王の時代、仏歯がスリランカに持ち込まれる、アヌラーダプラ王朝の全盛期
432-459年:タミルによる侵略、アヌラーダプラ王朝の終焉

アヌラーダプラ王朝後期(459~1017年)

459-477年:ダートゥセナ王の時代、タミルの制圧、アウカナ仏陀像の建設
477-495年:カッサパ王の時代、シーギリヤの建設
495-512年:モガッラン1世の時代、首都はアヌラーダプラに戻る
618-684年:タミルによる侵略、南インドのパッラヴァ朝による統治
684-718年:マナヴァンマ王の時代、パッラヴァ朝と同盟
835-853年:セーナ王の時代、インドを中心としたパーンディヤ朝の支配
947年ごろ:チョーラ朝による遠征、アヌラーダプラを略奪、王は島の南西部ロハーナへと逃れる
956-972年:マヒンダ4世がアヌラーダプラを再建
993-1017年:アヌラーダプラ略奪、チョーラ朝がポロンナルワで勝利、灌漑設備や宗教的な遺跡が破壊される

ポロンナルワ王朝期(1056年~1232年)

1055-1110年:ウィジャーヤバフ王の時代、チョーラ朝より開放
1073年:首都がポロンナルワへと移される、宗教や灌漑技術が復活
1153-1186年:パラクラーマ1世の時代、ポロンナルワ王朝が安定、政治、宗教、建築の建設がすすむ
1187-1196年:ニッサンカマッラ王の時代、巨大建築の建設がさらに進む

首都の移り変わる時代

1214年:インドのカリンガ国による侵略
1215-1624年:ジャフナ王国
1215-1236年:ダンバデニヤのマグハ王による圧制、ポロンナルワの崩壊
1273-1284年:ヤーパフワ王朝期
1341-1408年:ガンポラ王朝
1412-1597年:コッテ王朝
1505年:ポルトガルが到来、コロンボに要塞を建設、海岸線沿いを占領
1550-1597年:ポルトガルによりコッテ王朝にドムジャオダルマパーラ王が誕生

キャンディー王朝期(1597-1815年)

1597年:首都がキャンディーに移される
1619年:ポルトガルがジャフナを略奪
1656年:オランダが到来し、ポルトガルを破る
1796年:トリンコマリーの港を求めた英国にオランダが降伏
1798-1815年:最後のシンハラ王スリウィクラマラージャシンハ王の時代

英国植民地時代(1802-1948年)

1802年:セイロン島は大英帝国の植民地に
1815年:スリウィクラマラージャシンハが退位、国外追放
1867年:紅茶の産業栽培が開始、コロンボからキャンディーまで鉄道の建設がはじまる
1919年:ナショナリスト政党のセイロン国民会議が設立
1931年:普通選挙権が与えられる

独立から現在まで….

1948年:独立宣言
1959年:S.W.R.D.バンダラナイケ首相が仏教僧侶により暗殺される
1960年:シリマヴォ・バンダラナイケが世界初の女性首相に
1971年:スリランカ人民解放戦線(JVP)による暴動、南部で何千人もの人々が殺害される
1972年:国名がセイロンからスリランカ社会民主主義共和国に
1983年:“ブラック・ジュライ(黒い7月)”として知られるコロンボでのシンハラ人暴動により多数のタミル人が殺害される、スリランカ政府軍とタミルイーラム解放のトラ(LTTE)の間で紛争が勃発
1987年:インド平和維持軍が国内紛争に介入
1987-88年:2度目のJVPによる暴動、南部で何千人もの人々が暗殺される
1990年:インド平和維持軍がスリランカから撤退
1993年:ラナシンハ・プレマダーサ大統領が暗殺される
1996年:スリランカがワールドクリケットカップで優勝
2001年:スリランカ政府軍とLTTEの間で停戦合意
2004年12月:スマトラ沖地震による大津波の被害を受ける、海岸部を中心に3万人以上の人々が死亡、10万人以上が家を失う
2005年11月:マヒンダ・ラージャパクサが大統領に、スリランカ政府軍とLTTEの間で停戦合意が破棄
2009年5月:スリランカ政府軍がLTTEを破り国内紛争が終戦
2015年1月:約10年もの間続いたマヒンダ・ラージャパク政権を破り、マイトリーパーラ・シリセーナが台頭領に就任
2019年11月:選挙によりゴタバヤ・ラージャパク大統領就任、マヒンダ・ラージャパクサが首相就任